札幌地方裁判所 昭和46年(タ)22号 判決 1975年3月27日
原告
甲野太郎(仮名)
右訴訟代理人
下光軍二
外一名
被告
甲野花子(仮名)
右訴訟代理人
梅原成昭
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
(原告)
一、原告と被告とを離婚する。
二、原告と被告との間の長男斗志男(昭和三八年五月三日生)、二男比呂仁(昭和三九年七月一八日生)、長女靖子(昭和四一年二月一二日生)および二女玲子(昭和四二年二月一五日生)の親権者を原告と定める。
三、被告は原告に対し、金一三〇万円およびこれに対する昭和四六年七月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
四、訴訟費用は被告の負担とする。
右第三項につき仮執行言宣
(被告)
主文同旨
第二 当事者の主張
一、請求の原因
1 原・被告の経歴および婚姻の成立に至つた経緯
(一) 原告は、北海道大学医学部を卒業したのち医師の資格を取得し、昭和三六年九月から横浜にあるサマリタン病院に勤務するなどを経て、昭和四〇年一月に肩書住所地で医院を開業して現在に至つた。
被告は、秋田県の旧制女学校を経て日赤看護学院を卒業して看護婦となり、右サマリタン病院で看護婦をしていた。
(二) 原・被告は、昭和三六年秋頃、共に勤務していたサマリタン病院において恋愛関係になり、昭和三八年四月一〇日婚姻の届出をし、その後請求の趣旨記載のとおり、二人の間に二男二女が生まれた。
(三) 原・被告が婚姻の届出をするに至るまでには、次のような紆余曲折があつた。すなわち、原・被告は昭和三七年三月頃婚約し、同年六月に結婚式をあげる予定をたてたうえで、同年四月から東京で同棲を始めた。ところが、同年五月頃になり、被告にかつて男性関係があつたことがわかつた。性純情で、他に女性関係もなかつた原告は、これを知つて失望した。そして、原告は、被告の前の情夫に会つて右事実を確かめたうえ、被告に婚約の解消を申し入れ、同年八月いちおう婚約を解消することになつた。しかし、被告が、いちどはこれを了承したのに、睡眠薬自殺を図つたりした事情もあつて両名はそのまま内縁関係をつづけていた。
(四) 原告は、同年九月、実父憲蔵が死亡したのを機会に、被告を札幌の実母キチに預け、単身で東京に勤務していたが、被告が妊娠していたことがわかり、同人が妊娠中絶を承知しないこともあつて、昭和三八年四月母キチから呼戻されて札幌に帰つた。
すると、右キチか、女性の立場から被告の入藉を強く希望したので、原告は、母の意向を尊重して、長男出生のわずか二〇日あまり前である同年四月一〇日に生まれてくる子のために婚姻の届出をしたのである。
2 婚姻を継続し難い重大な事由
(一) 配偶者として信頼できない。
被告には誠実さが全くなく、たびたびうそをつくので、原告は、夫婦の日常生活上、妻としての被告の言動について何一つ信用することができない。
被告は、結婚にあたつて前述のように男性関係を隠していたし、婚姻生活に入つてからも、しよつちゆううそをいい、そのうそを正当化するためにつぎつぎとうそを重ねる有様であつた。そして、原告あるいは原告の母キチから問いつめられてうそがばれるとすぐ謝るが、虚言癖は一向になおらなかつた。このため、原告としては、妻を信じることができず、共同生活に耐えられない。
(二) しつと心が強く傲慢
被告は、原告方で働く看護婦に対してのみならず、女性患者に対してもしつと心が強く、たとえば、原告が車で往診にでかける際、帰る方向が同じなので女性患者を途中まで乗せようとすると、被告は、その患者に対し、いい気なもんだ、といつて発進しようとする車に飛び出してきてすがつたり、大声を出したりした。原告が医者の妻としての心得を説いても、被告はきき入れなかつた。このため、患者に対する評判をおとし、開業当初は増えていた患者が、約二年後からは減る一方となつた。このことは、のちに被告と別居してからは患者が増加したことからも明らかである。このように、被告の行為が原告の医業にはかり知れない悪影響を与えているのであつて、このようなことでは、原告は、医業を営むことができない。
(三) 医業に協力しない。
原告は、少しでも世の中の為になりたいと考えて医業に全力をつくしているが、被告は、服装とか職業で人を差別する。たとえば、診療が終つて患者が診察室を出た途端に、相手に聞えるような大声で「なんだ日雇いか。」と独り言をいい、その人を軽蔑する態度を示したりする。あとで、原告が被告にその非を説くと、被告は、一たんは謝るが、すぐに同じようなことをくり返す。
また、原告が母キチに持病を治療するための注射をするように指示したところ、被告は、注射が上手であるのに、何度も針を差したり抜いたりしていやがらせをするし、患児に対しても、その母親がいる所では親切な態度を示すが、いない所では虫けらを追い返すような扱いをしたことがある。このように、被告は、表裏のある行為を少しも反省せずにくり返すのである。これらのことからあきらかなように、被告は、看護婦の経験を持ちながら医者の業務について理解せず、医業の運営、発展に協力するどころか、マイナスになるような行動しかしていない。
被告がこんな状態であり、何回くり返してその非を説明しても反省するところがない以上、医業を続ける原告としては、これに対する適切な方法がなく、ついに被告を医院から引き離すこととし、昭和四三年六月から被告を肩書地に別居せしめるようになつた。
(四) 育児能力、財産管理能力の欠如
被告は、育児については、ミルクの飲ませ方、オムツの取替え等につき何一つ満足にすることができず、いつも他人の手を借りなければならなかつた。しかも、原告の母キチが発熱をおして沢山たまつたオムツを洗つているのを見ても、好できやつているのだからやらせておけばよい、といつて平然とテレビを見ていたり、看護婦に洗濯させたりしていた。
子供達についても、原・被告が別居して被告に養育されていた間は、末娘がおむつただれになつたり、他の三人が垢だらけの汚れたシャツに髪ボウボウの姿でいたなど、被告は、子供の清潔とか健康に全く無関心としか思えず、子供達は、母親を慕わず、母親のもとにやられることを極度におそれており、昭和四四年七月から原告の手もとにきてからはのびのびと明るく楽しく毎日を過ごしている。
更に、被告は、金銭の管理能力がなく、収入に合わせて計画的に支出することができず、金があれば全部使い果たしてしまう習性がある。
かつて日用品等をつけで買わせたところ、無計画に買いまくつたことがあり、被告は経済観念がなく家庭の主婦としての適格性に欠ける。
(五) 被告の三度目の自殺騒ぎ
被告は、前述したように最初は婚約解消の話の際自殺を図つたが、昭和四一年ころにも、子供を連れて鉄道自殺する等と口走つたことがあつた(このときは死ねなかつたと言つて戻り、悪かつたと謝つた。)
その後被告は、昭和四二年一二月ころ、同人の虐待により看護婦がいつかないため医院の手伝いに来ていた訴外牧口泰子(原告の従妹)に対し、あらぬ疑いをかけたことがあり、原告が、このことにつき、とにかく自分の言う通りに聞いてもらえないか、と言つたところ、被告は、私に唖になれ、つんぼになれと言うことなのかと反問し、「そうだ、私の言うとおりにしていれば間違いない」と原告が言うと、被告は、その翌朝、プロバリンを大量に服用し、自殺を計つたのである。
以上のことから、被告は、死をもつて、家庭のため原告の医業に協力できないという意思表示をしたと見られ、ここにおいて原告の離婚の決意は決定的なものとなつた。
被告は、自殺未遂後肺炎を併発したために入院し、退院してきたのは翌昭和四三年二月であつたが、それ以来原・被告は別居状態を続け、同年六月から話し合いの上、被告は肩書地に住むこととなつた。
(六) 原・被告の性格の相違その他
原告は、清純、潔白、正直かつ几帳面であつて、筋を通し、責任感強く、不正、不貞は許さず、博愛精神に富み、世のため人のために力を惜しまない。
他方被告は、ふしだらで婚前の男関係は一、二にとどまらず、しつと深く、虚言癖があり、子供の面倒も見切れず浪費家である。
このように、原告と被告の性格は、水と油のように全く相容れないのである。
なお、四人の子らは、原・被告が別居した当初は、被告が連れて行つて面倒をみていたが、昭和四四年七月からは原告の許で養育している。
(七) 以上のとおりであるから、原告は、今後被告との婚姻を継続していくことができず、原告と被告の間には婚姻を継続し難い重大な事由がある。
3 難婚協議の不調
原告は、双方の友人、知人、親戚を仲に立ててたびたび被告との離婚の話合いをし、又家庭裁判所に離婚調停の申立をしたが、すべて不調に終つた。
4 親権者の指定について
被告は、前述したように育児能力がなく、かつ子供達も被告方に帰ることを恐れている状況にある。他方、原告は、子煩悩で、誠実で、愛情が深く、子供達も慕つている。
したがつて、四人の子らすべてにつき、原告を親権者と定めるべきである。
5 慰謝料
原告は、まだ幼い四子を引きとり、これを養育すること自体容易なことではないのみならず、片親のひけめをもたせないよう今後二〇年も苦心しなければならない。一方被告は、すでに看護婦に復職し、自由を保証された生活が開かれている。
以上の点からすると、離婚により蒙る原告の精神的苦痛を慰謝するには金一三〇万円が相当である。
6 よつて原告は被告に対し、請求の趣旨記載の判決を求める。
二、請求の原因に対する被告の認否および主張
1(一) 請求の原因第1項の(一)(二)の各事実は認める。
(二) 同項(三)のうち、原・被告が原告主張のように、恋愛関係に入り、婚約および同棲をしたこと、被告にかつて男性関係があつたこと、原告の申し入れにより婚約が解消されたことおよび昭和三七年九月以降原・被告が内縁関係を続けたことは認める。被告が睡眠薬自殺を図つたことは否認し、その余の事実は知らない。
被告は、昭和三五年秋ころ、サマリタン病院の同僚看護婦の夫である訴外香取某と十和田湖へ旅行したとき、過つて同人と異性関係を一度経験したが、その後同人との交際を絶つており、原告と恋愛関係になるまでは右香取との男性関係がたつた一度の経験であつた。
被告が右事実を原告に告白するのをためらつていたところ原告と同棲後の昭和三七年夏に至り原告に右香取との交際を察知された。
そのことで原告から婚約解消の申入れがあり、被告もこれを了承したことろ、原告からその後婚約解消をあきらめるから一緒にいてくれと懇願されて同棲を続け、現在に至つたものである。
従つて、被告の過去の男性関係についてはすでに解決ずみであり、今さら問題にされる筋合ではない。
(三) 同項(四)のうち、原告の母が被告の入藉を強く求めたことは知らない。
その余の事実は認める。
2 請求の原因第2項の事実は否認する。
(一) 同項(一)につき、被告は精一ぱい妻として努力してきたのであり、真言宗の寺院に生まれて宗教的環境の中で成長した被告としては、夫に対し嘘をつくなどとうてい思いも及ぼないことである。原告との恋愛関係になる前の異性関係についても、被告は、故意にこれをとりつくろつたのではないし、原告は、この問題が精算されたものとして被告との婚姻届を出したのである。
(二) 同項の(二)につき、被告は、患者に対し、奉仕の精神、いたわりの心、同情心などを持つように心がけてきたし、家庭でも同様であつて、傲慢な態度で原告や第三者に接したことはなかつた。
(三) 同項の(三)につき、原告は医院開業から別居に至るまでの間、正式の資格ある看護婦を使わなかつたので、被告は、その間資格ある甲種看護婦として仕事をし、原告に協力を惜しまなかつた。中学校卒あるいは高等学校卒の見習看護婦をおいていた時期もあつたが、その間は、被告がその指導、監督はもちろん資格を要する看護の仕事をほとんど一人でやつてきた。診療時間は午後一時から同九時までであつたが、夜一〇時ころまで診療が続き、夜一二時ころまで後片ずけをするのが常であつた。
又、被告は平均二、三人から四、五人もいた入院患者の食事の世話、看護あるいは薬の調合などをしたほか、医療費の保険請求手続事務にも深夜におよぶまで骨身をおしまず従事した。このように、原告に対する被告の変わらない愛情と協力があつたからこそ医院の現在の隆盛が築かれたのである。
原告の母キチは、永年にわたつて施用された注射のためにその皮膚が硬直していたので、被告は、キチに注射した際、注射針をさし直したことがあつたかも知れないが、ことさら苦痛を与えるようなことをしたことはない。
(四) 同項の(四)につき、育児等について被告に不十分なことがあつたかもしれないが、原告が正規の資格ある看護婦を雇用し、被告を家事に専念させてくれたならば、家事全般について十分なことができたはずである。原告の母キチは、主婦でありながら看護婦の仕事をしなければならない被告の立場をよく理解し、家事や孫のお守りをして手のまわらない被告に協力してくれたのである。
又、原告は、子供達を被告から隔離して会わせないようにし、被告と子供達との接触を拒んでいるのであつて、子供達が被告を慕つていないのではない。
財産管理については、母キチが存命中は母キチがキチ死亡後は原告がそれぞれ財布を握つており、原告の財産関係について被告は一切知らされていなかつた。日用品をつけで購入していたこともあつたが、無計画に買いまくつたことはなかつた。被告は、入院患者を含め家族等の副食費として毎日金一、〇〇〇円づつ預かつて食品類を購入していたが、毎日精算して残金を原告に返していた。
(五) 同項の(五)につき、訴外牧口泰子は原告の従妹であるが、昭和四二年七月から看護婦代わりということで原告方にきた。泰子は、被告を出し抜いて我が者顔に振舞い、家事や看護の仕事に対し主婦顔でさい配をふるい、何かにつけて夫婦の間に割つて入つてきた。原告も妻である被告には唖になれ、黙つていれと叱りつけて言い分に耳をかさず、右泰子の言うことばかり取り上げていた。昭和四二年一二月初めころ、被告が保険請求事務に協力してほしいと懇願したのに原告は、これを無視して右泰子を家まで送つていくといつて二人で家を出てゆき、翌朝泰子をつれてきた。被告は、原告のこれらの態度をみるにつけ、原告の愛情がさめたものと思い、非観のあまり、思い余つてプロバリンを飲んで自殺を図つたのである。
被告は、その後肺炎をおこして入院し、昭和四三年二月末退院したが、右泰子は、右退院の日に一たん原告方を去り、同年三月初旬、保険金請求事務の手伝いをするため再び原告方にやつてきて四、五日いた。ところが、原告は、同年四月の保険金求請事務は右泰子方で行うといつて、四月初旬より毎晩九時の診療終了後泰子方へ出かけ、そのころよりときどき外泊もするようになつた。
一方原告は、被告に何の相談もなく、同年五月中ころより被告別居先の家屋をみつけて家賃を払つていた。被告としては、原告から当分の間離れていると原告も考え直してくれるものと思い、同年六月子供達をつれて現住地に移つた。しかし、被告が、昭和四四年七月一一日ころ原告訴訟代理人と話し合いをするため、子供達を一時原告に預けたところ、その後原告は、子供達を被告に返してくれず、現在に至つたものである。
3 同第3項の事実は認める。
4 同第4項の事実は否認する。
5 同第5項は否認する。
6 被告は、原告のために、主婦として又看護婦としてできる限りの努力をしてきた。そして、仮に、被告に原告主張のとおりの難点があつたとしても、これらは一般夫婦間に通常みられる事柄に過ぎず、離婚原因となりうる事由はでない。
更に、原・被告間の紛争の大きな原因は、訴外牧口泰子の存在であるのに、原告は、現在に至るまで同人との同居生活を継続し、紛争のたねをつみ取る努力をせず、被告の欠点のみを一方的に追求するのである。
第三 証拠<略>
理由
一婚姻の成立に至つた経緯および婚姻生活の状況について
<証拠>を総合すると、請求の原因第1項(一)(二)の各事実および次の事実が認められる。
すなわち、原告と被告は、昭和三七年三月ころ結婚を約束し、同年六月に結婚式を挙げる予定をたてたうえで、被告が勤めをやめ、東京都内に家を借りて同棲をはじめた。ところが、被告は、かつて香取某なる男性と親しくなり、一緒に旅行した際に異性関係を結んだ経験があり、このことが、ふとしたことから原告の知るところとなつた。そして、原告は、これを理由として婚約の解消を希望し、被告の親族とも話し合つて、同年八月中旬ころ、被告との間で婚約を解消することにきめた。ところが、原告と被告は、そのままで同棲を続け、原告は同年九月に原告の父親が死亡したために一たん札幌市に帰郷しのたち、被告を母キチに託し、単身東京で医業に従事していた。そうするうちに、被告が妊娠していることが判明し、このこととキチに勧められたことなどから、原告は札幌に帰り、原告と被告は、昭和三八年四月一〇日、結婚式をしないままに婚姻届を提出した。
その後、原告は、北海道内の僻地の病院に単身で勤務するなどを経たのち、昭和四〇年一月肩書地に建物を新築して内科、外科等の医院を開業した。医院では、当初は、被告が看護婦の仕事を一さい引き受けていたが、のちには一人ないし三、四人の見習看護婦をおくようになり、ほかに炊事等のためにも人を雇つた。しかし、正規の看護婦がおかれたことはなく、被告は、育児、家事のほか手術等の場合には看護婦の仕事をし、ほかに入院患者の食事等の世話および医療保険金の請求事務にも従事したため多忙であり、午後九時まで診療が行われたこともあつて被告の仕事が深夜に及ぶことも少くなかつた。
原告と被告の間は、原告が医院を開業するまではさしたる不和もなかつたが、開業後、被告が、多忙のあまり家事や育児をなおざりにしたことがあつたり、見習看護婦や患者らとの対人関係の処理が十分に出来ない状態の時があつたことが原告の意に副わず、他方、原告が、医業に精を出すあまり、被告の立場と被告の女性としての感情に対する配慮が十分でないことに被告が苛立ちを感じ、細かいことによく気付き、几帳面である、原告と、どちらかと言えば、大まかな被告という両者の性格の相違とが相まつて二人の間は次第に冷却し、時には反発し合うこともあつたが、原告の母キチのとりなしにより家庭内の平穏を維持していた。ところが、昭和四一年七月、キチが死亡し、これをきつかけとして見習看護婦らが退職して人手不足となつたため、同年一一月ころから原告のいとこである訴外牧口泰子が、原告方に住み込んで医療の手伝いなどをするようになつた。訴外牧口は原告との近親者である関係からか、被告が十分にはたせない家事、育児の面に同女の口を藉りれば「見るに見かねて」いろいろ手助けをし、これが被告の妻としての立場を浸触していき、かつ原告も寧ろこれを歓迎している風であつたので泰子と被告は折り合いがわるく、事ある毎に反目し合つていたところ、昭和四二年一二月ころ、被告が徹夜して保険請求の書類を作成しこれを見てほしいと原告に懇請したにもかかわらず原告が被告の反対をおして泰子を自宅に送つて行つたまま朝になつても帰らなかつたことから、被告は、生理中に拘らず、車庫のコンクリート上で座禅を組んで夜を再び徹し、原告が連れ帰つてきた泰子の態度が被告を軽蔑するような状態であつたため前途を悲観して発作的にプロバリンを飲んで自殺を図つた。被告は、原告の介抱によつて一命をとりとめたが、間もなく肺炎を起こし、昭和四三年二月下旬ころまで北大病院に入院した。被告の入院中、原告は、かねてから被告に対する不満が昂ずるあまり、被告との離婚を考えるようになつた。被告が退院したのち、原告は、昼は医院で診療にあたり、夜は被告を避けて親戚である馬林方などに宿泊する生活を続けていたが、同年六月ころ、被告は、医院の事務長であつた小林の勧めにより、同人があつせんした借家に移り、爾来原・被告は別居状態を続けて今日に至つた。別居した当初四人の子らは全員被告に引き取られたが、昭和四四年ころ、被告が原告の代理人と離婚問題について話し合つた際に子らを一時原告に預けて以来、子らは四人共原告の許で養育されるようになつた。
以上のとおり認められ、右認定を左右する証拠はない。
二原告主張の婚姻を継続し難い重大な事由について
原告は、婚姻を継続し難い重大な事由として、被告が配偶者として信頼できないこと等を主張するので、これらの事由について検討する。
1 被告にうそが多いために配偶者として信頼できないとの原告の主張について考えるに、原・被告各本人尋問の結果によると、被告が婚姻前の男性関係を原告に知られるまで黙つていたことが明らかであるが、婚約者に対し、このような事実を進んで打ち明けるべきかどうかは男女間の機微に属する事柄であつて、被告が婚約の初期の段階においてこれについて黙していたことをもつて直ちに原告に対する背信的な態度であつたというべきではなく、また、前認定の経緯によれば、被告に男性関係があつたこと自体については、原告は、これを宥恕したうえで婚姻届を提出したものということができる。
原告は、日常生活のうえでも、被告が原告あるいは近隣の人達などに対しうそをついたとの趣旨の供述をするが、右供述は、被告本人の供述に照らすと必らずしも全面的には採用し難いのみならず、かりにそのとおりの事実があつたとしても、これらは、いずれも些細なことであつて、これにより、被告が虚栄心の強い性格の持主であることがある程度窺われるものの、そのために婚姻生活の継続に支障をきたすものとは到底考えられない。
2 <証拠>によると、被告は、原告が女性と行動を共にすることに対してはかなり神経質であり、原告が女性の患者を車に同乗させていたのに対しその場で抗議したり、原告が見習看護婦に特に頼んで部屋の掃除をさせたことに腹を立てて室内に塩をまくなどしつと心を露骨に表現したこともあつたことが認められる。しかし、時折このような行動があつたからといつて、そのために患者の数が著しく減少したとは考えられず、その趣旨の原告本人の供述は採用し難い。
3 <証拠>によると、被告が患者をその職業によつて差別しているかのようにみえる態度を示したこともあつたことが窺われないではないが、それらは、医師の妻として不適当であるといえる程の事実とは考えられないし、またそのために被告が原告の医業に不協力であつたとは到底いうことができない。また、キチに注射を打つ際に、被告がことさらいやがらせをしたことを認めるに足りる証拠はない。
4 <証拠>によると、被告には、寝床を一日中敷きはなしにしておくとか、ほこりがたまつても部屋の掃除をせず、洗たくを途中で放り出したまま他の用事をし、あるいは幼児のおむつが濡れているのに長時間放置しておくなど、家事や育児の面でいささかだらしのない点がみられたことが認められる。これらの点からみると被告は、家事や育児を必らずしもてきぱきと処理するタイプではなく、家庭内の整頓および清潔の維持の面についての正常な感覚にもいささか欠けるところがあることが察せられる。しかし、前認定のその当時の状況からすれば、被告は、看護婦としての仕事など多様の仕事に追われて極めて多忙であり、医療および家事・育児のあらゆる面で万全な処理をすることが到底できない状態にあつたと考えられるから、前述の如き不始末な状態がみられたことの責をすべて被告に帰することは酷に失するものといわざるを得ない。
原告本人は、被告の金銭に対する管理能力ないし経済観念につき、るる欠点を指摘するが、右供述は、被告本人尋問の結果に照らしにわかに採用し難いのみならず、被告には家計を委ねられたことが一度もなかつた(このことは各本人の供述によつてあきらかである。)のであつて、家計についての責任のない立場での限られた範囲における金銭の支出の状況のみからその経済観念までも云々することは必ずしも当を得たものではない。
子らが被告を慕つていなかつたとの事実を認めるべき証拠はない。
5 被告が自殺を図つたことは前述のとおりであるが、これは、原告と牧口泰子の行動などから被告が前途を悲観したことによるものであり(これも前認定のとおりである。)、原告主張のように、これによつて被告が原告の医業に協力しない態度を示したものと評価すべき筋合の問題ではない。
6 右に認定した諸事実と<証拠>を総合すると、原・被告の性格、処生観ないし生活態度につき次のように認められる。
原告は、医業に関しては、打算を離れて献身する姿勢を貫いてきたものであつて、そのかぎりでは、博愛の精神に富み、医師にふさわしい人格の持主であるということができる。しかし、被告と知り合つて以来の被告に対する態度ことに婚約者および配偶者としての被告に対する遇し方をみると、原告は、かなりかたよつた性格ないし考え方の持主であるようにも見受けられる。すなわち、原告が、被告の過去の男性関係を知るとすぐに婚約の解消を申し入れたことから考えると、原告は、男女間のモラルについて潔癖であり、結婚の相手が処女であることを期待する伝統的な考え方に則した感覚の持主であつたとみられるが、他方結婚式の予定をたてていながら婚約後間もなく同棲を始め、相手の親族を交えて婚約の解消をきめておきながら、さしたる動機もないのに同棲を継続し、結局婚姻届を提出するに至つたのに結婚の披露は遂にしなかつたことなどからは、結婚に関する伝統的なしきたりを極端に軽視する姿勢が窺われるのであつて、高度の教育を受け、分別をわきまえるべき年令(昭和三年生れ)に達していた男性の行動としては、前後一貫を欠き不可解の感を免れることができない。婚姻生活中も、被告は、次々と四人の子が生れるさなかに、原告の開業医としての十分な地盤、名声が固まらない段階で医療の面にも何かと関与せざるを得ない立場にあり、かつまた、後述するように、被告は、個性の強い女性でもあるから、原告は、このような現実をふまえて、被告の欠点にも理解を示し、家庭の平穏を維持すべく努力しなければならなかつたところ、原告にはそのような姿勢に乏しく、自己の妻としての理想像、看護婦としての十分な仕事両面を全うさせるべく被告の非を責めるにのみ急であつたということができる。また、原告は、被告と別居した際には四人の子らをたやすく被告に託しておきながら、のちに子らを引き取つてからは、子らを被告から全く隔離し、数年にわたり被告との面会をかたくなに拒否してきたのであつて、このことは子に対する母親の情愛をあまりにも無視したものであり、常人には理解し難い態度というほかはない。
他方、被告の性格は、多分に合理主義的であつて、原告のように他を顧りみずに患者に奉仕する如き姿勢にはたやすくなじむことができず、第三者からみれば、原告が暖く感じられる人柄であるのに対し、被告はむしろ冷く感じられるタイプに属するものと認められる。そして、被告は、他人に対する好き嫌いが激しく、多数の人達を指導したり、その融和を図つてゆくことが苦手であり、しかも感情的になり易く、それを屡々態度にあらわすために、他人に対して不快な思いをさせ、他人から、嫌われることが少くなかつた。また、しつと心が激しく、それを露骨に態度で示し、家事や育児についても几帳面ではなかつたために、家族や同居者に対し、この面でも好感を持たれないことが多かつた。しかし、被告は、看護婦としては確かな技術と十分な経験を持ち、医療にもそつなく従事したから、この面では、被告は、原告の有能な助力者であつた。
三以上を総合し、婚姻を継続し難い重大な事由があるというべきかどうかについて考察する。
原告が、婚姻を継続し難い重大な事由として主張する事実のうち証拠によつて認められる事実は前述のとおりであるが、右事実によれば、被告の性格、態度などが原・被告の間を冷却させた一因をなしたことを否定できず、また被告の存在が原告の医院の運営を阻害した面もあつたことがあきらかである。しかし、原告は、被告の長所と短所を率直に認めたうえで被告の人間性を理解し、これを包容してゆく大らかさに欠けていたものといわざるを得ず、被告の特異な行動も、もとをただせば、原告のかような無理解に端を発したものといえないこともない。原告が医院を開業してからは、原・被告間の不和が次第に深まつてゆき、被告の自殺騒ぎに至つて原告は被告との婚姻生活に望みを失なつたのであり、被告もまた本訴の追行を通じての原告の言動をみて原告に失望した趣旨の供述をする。しかし、この点を十分に斟酌しても原・被告間の婚姻が既に破綻したものということはできない。原・被告が今日の事態に立至つたについては、原告主張のように一方的に被告に原因があつたのではなく、原・被告ともに、相手を理解し合い、長短合わせて受容し合う気持を欠いていたことに大きな原因があつたということができ、したがつて、将来互いに努力し合うことによりこれを克服することができると考えられるからである。そして、原告と被告は、性格的にかなり対照的であつて相互に融和し難いきらいがあることは否定できないが、対照的であるが故にかえつてよく融和している例もよくあることであり、また、原・被告のいずれも、いかなる努力によつても円満な婚姻生活を維持することが期待できない程極端に片寄つた性格の持主であるわけではない。
原告は、前記のとおり、医師として安定した立派な職業にあり、患者・看護婦の評判も良く、肉体的にも何ら欠陥はなく、年令的に見ても、最も充実した時期にあると言える。
被告は、過去において病気持ちの姑に仕え、手の最もかかる年令四人の子供の母親として、何ら事故もなく育て上げ、かつ開業医として確立した地位を有しなかつた段階において多少の軋轢はあつたにしろ、原告に対し看護婦として無料奉仕をした実績を有しているのであつて、法廷における態度から明らかなとおり以上の如き感情に奔らない強い自制心と子供を引き離され一人で生活する悲哀にもめげない忍耐心をそなえたものと認められ、今後はしつと心から自己を失うということはないものと思われる。
原告と被告との出来事は、いかなる夫婦でもありがちな事柄の程度の域を出ず、相手の人格を根底から踏みにじつたものと言うことはできない。
これを要するに、原・被告間に婚姻を継続し難い重大な事由があるということはできない。
そうすると、原告の離婚および慰藉料の支払を求める各請求はいずれも失当といわなければならない。よつて、原告の請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(橘勝治 佐々木一彦 古川行男)